
PROJECT STORY
西日本豪雨災害
応急復旧プロジェクト
西日本各地に甚大な被害をもたらした平成30年の7月豪雨。土砂災害によって山陽自動車道と広島呉道路の通行止めという緊急事態に直面した技術者たちが、いかにして早期の復旧を果たしたのか。当時の証言を交えながら技術者たちの奮闘に迫ります。
INTERVIEWER

本社
技師長
(当時は調査設計部・部長)
下野 宗彦

広島支店
施設技術部 部長
(当時は広島施設事務所・所長)
天野 隆宏
INTRODUCTION
平成30年7月、その雨は一向にあがる気配がなかった。これまで経験したことのない降雨量が、日本全体を不安で覆っていく。7月6日、九州に続いて、広島・岡山・鳥取にも大雨特別警報が発令。公共交通機関だけでなく、ついに中国地方の大動脈である山陽自動車道も通行止めになった。遮断された社会インフラ。人の行き来だけでなく、被災地への物資の輸送も遮られるという緊急事態。土砂崩れによる被害はどれほどのものなのか?NEXCO全体に緊張が走った。
EPISODE_01
にわかには信じがたい光景が広がっていた。
当時、土木の調査設計部長だった下野は、数日前からNEXCOの気象予報情報を確認し、嫌な予感を抱えていたという。ビルの窓をたたく激しい雨音を聞きながら、彼は技術者たちに「準備をしておきなさい」と静かに告げた。広島施設事務所長であった天野も停電を見越し、自家発電の仮設の準備を始めた。
そして未明、下野の自宅に土木事業本部長から1本の連絡が入った。「山陽道が大変なことになっている。直ちに防災対策室へ行くように」急いで自宅を出て、防災対策室に入ると、そこで目にしたのは土石流が流れ込んだ志和トンネルの写真。「現場に向かってくれ」と告げられ、NEXCOの技術者と共に志和トンネルへと向かった。
現場に広がっていたのは見たこともない惨状だった。しかし先着の技術者から「東側方面がもっと酷いことになっている」と聞かされる。「詳細な調査をできるような状況ではない」と下野はドローン班や技術者と共に本線の東側を目指す。大量の流木と泥流に阻まれながらも緊急対応をしていたゼネコンのホイルローダーに先導してもらい、なんとか交通を確保し前に進んだ。
東に移動すると「もっと東の方もやられている」「あっちもだめだ」と次から次へと情報が入ってきた。あまりの被災箇所の多さに、下野は一瞬その場に立ち尽くし天を見上げた。

EPISODE_02
孤立する呉。飛び交う情報。つのる疲労感。
「ここまでの規模の災害は初めてでした」と天野も語る。山陽自動車道の開放に向けて、全ての技術者が未曾有の対応に迫られていた。被災箇所は40ヶ所以上あり、施設の技術者たちは夜間のための照明、現地状況をモニタリングするためのカメラの設置、その設備のための電源の確保に追われた。ただ、それはまだ災害対応の一部でしかなかったことをすぐに知ることになる。
それは1本の電話からだった。待機している下野に技術支援者から連絡が入った。「広島呉道路が大崩壊している!」下野は山陽道の間違いではないかと聞き直した。「いや、広島呉道路の盛土が大崩壊して、道がなくなっている…」
すぐに支社へ移動して現場写真を確認した。高速道路の路面がなくなり、その下のJR呉線と国道31号に土砂が流出して、すべてのインフラが埋まっていた。
被害者が出たのではないか、と下野は血の気が引いた。しかし幸いなことに第三者被害はなかった。すぐに対策方針の検討に入ったが、その間も応急対応の計画に対する問い合わせが鳴り続いた。
少しの仮眠を取っただけで体は疲弊していたが、妙に意識は冴えていた。緊急調査に向かう技術者には「自分の安全は、自分で守れ」と伝えた。再び土砂が来る可能性もあり、遠くから確認することを徹底させる。気がつくとまた夜が明けていた。

EPISODE_03
「守る者たち」の信念が、復旧を加速させた。
一方、山陽自動車道は緊急・救援物資車両の通行を確保することが急務だった。天野は、流入した土砂を片側に寄せて出来た1車線を片側交互通行とするために、カラーコーンや矢印板などの規制材や信号設備の準備を急いだ。
緊急車両の台数は約1万7000台。被災地支援のために一刻も早く解消しなくてはいけないと、結果的には約3日で通行を確保した。
緊急車両が通り過ぎる脇で、泥まみれになりながら作業をする技術者たち。土砂を撤去した後のトンネルに入り、非常用設備などもひとつずつ点検。スプリンクラーの配管が損傷し水が全て流出したため、給水車で何度も水を運んだ。
そして約1週間後、山陽自動車道の通行止めが解除になった。
「1週間で開放なんて、とんでもないスピードですよ」と下野は語る。他の地方の高速道路では土砂災害の復旧に1ヶ月の時間を要したこともある。
国道31号の早期開放を目指し、土砂に埋まった箇所を迂回して、新たな道をつなぐ方針が決まった。計画では広島呉道路の開通まで約100日。それも80日あまりでやり遂げた。
「不思議なことにですね…」と下野は言った。「この状況下で、不平・不満を言うような技術者がいなかったんですよ」
天野も続く。「若い技術者たちが目の色を変えて災害現場に向かっていましたから」
社会的な使命を全うすること。その技術者たちの想いが、災害時に色濃く浮かびあがった。「天災は起きるもの。だから土砂災害を扱う技術者を減らしてはいけないんです」と下野は信念のこもった言葉で締めくくった。
